人間って、よく「自分のことをわかってほしい」と言ったりします。
一方で、人間って相手のことを理解してあげたい人間だと思うんですよ。
にもかかわらず、どうして人間というのは、相手のことをすんなり理解してあげられないのか、長いこと疑問でした。
相手の”粗”が理解への障害物
こうなってしまう理由のひとつとして、相手から傍若無人さを感じるとか、誠実さを感じないとか、そういうところが理解への障害物になっているんじゃないかな、と私は推測しています。
日本人特有かもしれません。
「言っていることはよくわかるんだけど、何かなぁ・・・・」
みたいな。
聖人であってほしい、良い人であってほしい
日本人は、自分よりも上に立つ人に対して、聖人君子であることを求めがちです。
「お金に汚い人であってほしくない」
「何も悪いことをしてない人であってほしい」
「誰に対しても平等に接してほしい」
「自分と同じ視点で物事を見てほしい」
など。
こういう側面を持ち合わせていない人の場合、その人の言うことは、正しいことであっても耳を傾けなくなります。
日本人だからしょうがないと割り切ることが重要
「相手がどう振る舞っていようが、言っていることは正しいのだから、それを受け入れるべきだ」
これを認めてしまうと、逆に相手のことも認めなければならなくなります。
ですので、現在の状態、つまり”粗”が理解への障害物になってしまっている現状が、一番お互いにバランスが取れた状態のように感じます。
この現状は、「日本人だからしょうがない」と割り切るしかないと思います。
理解してほしければ、自分の”粗”を無くさなければならない
どれだけ早く人々に理解されるか、これに関しては、どれだけ自分の”粗”を無くすことができるかにかかっていると思います。
言い換えると、”粗”を無くす行動というのは、人々に”理解させる”行動ということになります。
理解されるためには、まず理解する
まずは相手のことを理解する、これも重要なことです。
自分のことを理解してもらう前に、相手のことを先に理解してあげる。
理解してくれたら、やはり相手の事も理解してあげたくなってしまうのが人間というものです。
理解してもらうためには、上手に努力をする
という感じで、理解してもらうためには上手に努力しなければなりません。
努力の方向性が違かったりすると、いくら努力しようが、いつまでたっても理解されません。
これは、ペン習字や書道でも同じですね。
間違った努力をし続けたところで、やはり上手にはならないんですよね。
硬筆・毛筆書写検定の合格のためには、審査員の気持ちを理解する。とても重要なことです。
「これが俺・私の”書”なんだ!!!!」と、よくわからないものを押し付けられたところで、
「あ、そうですか」で終わります。
やはり上手な努力は大切だということですよね。
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