孤立した自分の美的感覚で世の中を渡ることの孤独さ

自分はいわゆるどこかの書道団体に所属していたり、どこかの書風を倣ってはいません。
それは最初から、そういう選択を自分でしたからそのような学びの態度をとっています。

なぜそういう選択をしたか。

それは、

・自分は何物にも染まりたくない
・自分で新しい書風を生み出したい

この2点があります。

自分は何物にも染まりたくない

このように書いてしまうと語弊があるのですが。。

自分で見て考えて選択したものなら、それは吸収してOKなのです。
自分で何も考えずに、ただ与えられるだけのものを吸収するその姿勢が嫌なのです。

書風の垣根を越えて、自分で良い物・良さそうな書風を選び、それを吸収してゆく。

選んでみてもしそれがダメだったら、反省して次に活かせばよいだけ。
失敗なんて失敗ではありません。その失敗を失敗のまま終わらすことが本当の失敗です。
失敗から学んだり、その失敗を良い思い出にすれば、それは失敗ではなく次の成功に繋げるための糧となりうるのです。

あくまで自分が主人公。何事も主体的に進めていきたい。

 

自分で新しい書風を生み出したい

様々な書風を吸収して、新しい書風を生み出すことができないかと考えています。
これはとても難しいことです。正解がないですから。

もうすでに確立している書風は目指せるゴールがあるから、気持ちは楽だと思います。
自分が目指しているゴールは、ゴールがないから大変です。

それでも、世の中に新しいもの・新しい価値を生み出したいという思いは強いです。

 

孤立した自分の美的感覚で世の中を渡ることの孤独さ

さて、本題です。

故に、私は孤独なのです。

オリジナルの美的感覚ゆえに、同士がいません。
(プライベートの交友関係はありますよ)

これは精神的に応えるものがあります。

しかし、王義之をはじめ唐の四大家も、ゴールが存在しない中でその書風を確立しました。

彼らと同じ土俵に立つことで、新しい書風を生み出すための第一歩としては、まずは間違っていないのではないかと思っています。

その先に自分が追い求めているものがあるはず。
自分が信じたこの道を、このまま進んでいきます。

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